京都大学人文科学研究所パンデミック研究プロジェクト

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このページでは、市民・大学のネットワークを通じて、全国の学者や市井の人々から情報を提供していただいた資料、これまでの先駆的な研究が収集した資料、私たちのプロジェクトで収集した資料などを、広く市民が使用できるようにご提示する予定です。

近世末期の種痘の鑑定証
1861(文久元)年

江戸・赤坂御門外に開設された、「種痘所」出張所の種痘予定表(右)と種痘鑑定証(左)。「種痘所」は、江戸の蘭学者らの尽力により1858(安政5)年に「お玉ヶ池」(のちに下谷和泉橋通りに移転)に設立された。ここに担当医として名の載る「小菅純清」も、その蘭学者のうちの一人。「種痘所」は以降、さまざまに改組・改称され、現代の東京大学医学部となった。

 種痘を受けた者は、種痘後6日に再び種痘所(出張所)を訪れ、問題なく牛痘が着いたかどうか鑑定をうける決まりであった。鑑定証(左)の「真痘」は、種痘箇所に無事反応が見られたことを証している(十分な反応が見られない場合は「仮痘」)。

【参考】

・深瀬泰旦『天然痘根絶史――近代医学勃興期の人びと』思文閣出版、2002年。

牛痘種痘奨励の引札
1850(嘉永3)年

牛痘種痘の普及に尽力した江戸の町医・桑田立斎(くわた りゅうさい)が作成した牛痘種痘奨励の版画。1849(嘉永2)年に初版が作成されて以降、版が重ねられ(本資料は再刻版)、列島各地でもそれを模した版画が多数作成された。

白牛に乗った「牛痘児」(生国オランダ)が、右下の「疱瘡神」(実は悪魔)を、槍(種痘針)で追い払っている。「牛痘児」の上腕部には、種痘の跡も描かれる。

【参考】

・高橋真一『幕末の種痘医 桑田立斎――「牛痘児図」による天然痘撲滅への挑戦』新潟日報事業社、2013年。