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このページでは、市民・大学のネットワークを通じて、全国の学者や市井の人々から情報を提供していただいた資料、これまでの先駆的な研究が収集した資料、私たちのプロジェクトで収集した資料などを、広く市民が使用できるようにご提示する予定です。
1862(文久2)年夏のコレラの流行後に、幕命をうけた杉田玄端ら「洋書調所」(のちに「開成所」)の教授陣が、防疫に関するオランダ語論文を翻訳・編集した論文集。前半には、コレラの予防・治療に関する論文4編を、後半には西洋諸国で実践される「検疫(キュアランタイネ)」に関する論文3編が収録される。 |
西洋諸国の防疫策については、以前にもペストの対策を紹介した書物が刊行されていたが(仙台藩医・小野寺将順による『済世一方』、1856(安政3)年刊行、隔離病院や「郭亜蘭多伊涅(クアランタイネ)」についても言及)、本書は、一国の伝染病対策を念頭に「官版」として刊行されていた点で重要である。
京都・五条の薬舗が半世紀以上にわたって販売した万能薬「脾肝薬王円」の能書書。1813(文化10)年より明治中期まで、『小児養育金礎』『小児養育心得』など10数回にわたって改題・改版を重ねて刊行された。ここに掲出するのは、その一部。 |
時代により、依拠する疾病の疫学や「脾肝薬王円」の薬理・薬効が変遷する。江戸期の版には、「虫」の疫学(『秘伝衛生論』『虫鑑』など)の影響が色濃くみられる。
京都・五条の薬舗が半世紀以上にわたって販売した万能薬「脾肝薬王円」の能書書。1813(文化10)年より明治中期まで、『小児養育金礎』『小児養育心得』など10数回にわたって改題・改版を重ねて刊行された。ここに掲出するのは、その一部。 |
時代により、依拠する疾病の疫学や「脾肝薬王円」の薬理・薬効が変遷する。江戸期の版には、「虫」の疫学(『秘伝衛生論』『虫鑑』など)の影響が色濃くみられる。
京都・五条の薬舗が半世紀以上にわたって販売した万能薬「脾肝薬王円」の能書書。1813(文化10)年より明治中期まで、『小児養育金礎』『小児養育心得』など10数回にわたって改題・改版を重ねて刊行された。ここに掲出するのは、その一部。 |
時代により、依拠する疾病の疫学や「脾肝薬王円」の薬理・薬効が変遷する。江戸期の版には、「虫」の疫学(『秘伝衛生論』『虫鑑』など)の影響が色濃くみられる。
1897(明治30)年に常設となった、東京市本郷区駒込動坂町の伝染病院「駒込病院」の医局日誌。コレラ・赤痢・腸チフス・痘瘡・ヂフテリア等の収容患者数やその転帰、医療従事者の出入りなどが克明に記される。
※本文の画像は、全文の翻刻ならびに個人情報の目隠し等の処理をおこなった後に公開
【参考】 ・磯貝元『明治の避病院――駒込病院医局日誌抄』思文閣出版、1999年。 |
・東京都立駒込病院編『駒込病院百年史』第一法規出版、1983年。
1897(明治30)年に常設となった、東京市本郷区駒込動坂町の伝染病院「駒込病院」の医局日誌。コレラ・赤痢・腸チフス・痘瘡・ヂフテリア等の収容患者数やその転帰、医療従事者の出入りなどが克明に記される。
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【参考】 ・磯貝元『明治の避病院――駒込病院医局日誌抄』思文閣出版、1999年。 |
・東京都立駒込病院編『駒込病院百年史』第一法規出版、1983年。
1897(明治30)年に常設となった、東京市本郷区駒込動坂町の伝染病院「駒込病院」の医局日誌。コレラ・赤痢・腸チフス・痘瘡・ヂフテリア等の収容患者数やその転帰、医療従事者の出入りなどが克明に記される。
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【参考】 ・磯貝元『明治の避病院――駒込病院医局日誌抄』思文閣出版、1999年。 |
・東京都立駒込病院編『駒込病院百年史』第一法規出版、1983年。
1897(明治30)年に常設となった、東京市本郷区駒込動坂町の伝染病院「駒込病院」の医局日誌。コレラ・赤痢・腸チフス・痘瘡・ヂフテリア等の収容患者数やその転帰、医療従事者の出入りなどが克明に記される。
※本文の画像は、全文の翻刻ならびに個人情報の目隠し等の処理をおこなった後に公開
【参考】 ・磯貝元『明治の避病院――駒込病院医局日誌抄』思文閣出版、1999年。 |
・東京都立駒込病院編『駒込病院百年史』第一法規出版、1983年。
江戸・赤坂御門外に開設された、「種痘所」出張所の種痘予定表(右)と種痘鑑定証(左)。「種痘所」は、江戸の蘭学者らの尽力により1858(安政5)年に「お玉ヶ池」(のちに下谷和泉橋通りに移転)に設立された。ここに担当医として名の載る「小菅純清」も、その蘭学者のうちの一人。「種痘所」は以降、さまざまに改組・改称され、現代の東京大学医学部となった。 種痘を受けた者は、種痘後6日に再び種痘所(出張所)を訪れ、問題なく牛痘が着いたかどうか鑑定をうける決まりであった。鑑定証(左)の「真痘」は、種痘箇所に無事反応が見られたことを証している(十分な反応が見られない場合は「仮痘」)。 【参考】 |
・深瀬泰旦『天然痘根絶史――近代医学勃興期の人びと』思文閣出版、2002年。